映画で言ったもん勝ち 第6回『バベル』
賛否両論真っ二つのこの映画は、モロッコ、メキシコ、日本という一見遠い国で起きたそれぞれの出来事が、実は線で繋がっていたというお話。だが、その線がどのようにして繋がるのかばかりを主眼にして観ると失敗する。
この映画が伝えたいのはそんな謎解き要素ではなく、簡単に言うと、どんなに距離(心の距離も含む)が離れていようと人類はひとつであるという事だ。
日本のおっさんが、ただ感謝の気持ちとしてモロッコ人ガイドに贈った一丁のライフルが、モロッコでアメリカ人女性の銃撃に使用され、そのアメリカ人女性の子供のベビーシッターがそれによりメキシコで執り行う息子の結婚式に子供を連れて無理やり出席したが、その帰り道で天国から地獄に落とされて…と言った具合。
登場人物達は、ことごとく自分勝手な行動をとり事態を悪化させて被害を拡大させていく。
この映画は何が言いたいかと言うと、何気なく起こしている行動が近くの人だけじゃなくて、回り回って世界中に影響する時代だから、もっと自覚と責任を持って行動せよ!って事だろう。(プラピ演じる主人公が、自分の嫁を助けようとする思いだけで、現地や周りに甚大な迷惑を掛ける描写は、アメリカ政府のやり方を皮肉ってると思われる。)そして、もっと世界の出来事に目を向けて、言葉の壁もぶち壊そうぜ!って事なのだと思う。
ラスト、若い刑事が居酒屋のカウンターで手紙を開く。
その聾唖の日本人女子高生(菊地凛子が怪演)から渡された手紙の内容を全く映さない演出にそれが現れている。
言葉じゃない、感情だと。
ネットでは、あの手紙には何て書いてあったのかが盛んに議論されていたようだが、そんな事はどうでも良いのだ。
手紙を読んだ刑事の切ない表情、それが全てであり、それがこの映画が伝えたかった事なのである。
コーヒーで言ったもん勝ち
コーヒーはコーヒーであって味噌汁では無いんです。
突然何を当たり前のことを?と思われるかも知れませんが、たまに(と言うか結構)いませんか?コーヒーを味噌汁みたいに「ズズズズー、ズズズズー」って下品な音をたてて飲む人が。
あえて面倒臭い事を言うと、コーヒーは西洋文化の飲み物だから、啜るのはマナー違反なんです。
猫舌なのかな?とも思いますが、音を立てなくたって、ちょっとしたコツで啜らなくても飲めるはずなんです。
ま〜、少しぐらいなら構いませんが、そう言う人に限って長いんです。「ズズズズー…ズズズズー…ズズズズー…ズズズズー…」って。
もうそんなに熱くないだろー!ってツッコミたいけど、これに限らず本人が気付いてない長年培われてきた変な所作って指摘しづらいんですよね。
もちろん俺にもあるんでしょうが、何だか俺の場合は他人に指摘される事が多いような。
ま、その方が治せるから良いんですけどね。
反町隆史のポイズンを聴きながら。
濡れ衣で言ったもん勝ち
自分がやった事に対して責任を取るべきなのは言うまでもありませんが、世の中には、他人がやった事の尻拭いや全く身に覚えの無い事で罪を着せられたりする事も少なからずありますよね。
非常に悔しい思いをしますし、怒りのやり場もなかったりして、最悪、生きる気力を失ったりもします。
先日、出張先で街を探索しようとブラブラ歩いていると、自転車に乗った見知らぬ若い兄ちゃんに通りすがりで「たまごっちなんかやってんじゃねーよ!」と怒鳴られました。
何故たまごっち?
手には何も持っていないし、たまごっちなんかやった事もありません。
あまりにも自然に怒られたため、一瞬罪悪感でいっぱいになりましたが、いやいやいやと、すぐにこれは濡れ衣だと気付いたわけです。
もっと言うと、仮に俺がたまごっちをやってたとしても、それは個人の自由だしそんな怒られる事か?と思ったら怒りがこみ上げてきて、本当にたまごっちやってやろうか?コラァ!と思ったわけです。
そんな事を考えていると、ふと冷静になって、あれ?もしかしてあの兄ちゃんはバンダイの社員か回し者で、密かにたまごっちの普及活動でもしてるのかな?と思えてきて、やられたー!となったわけですね。
たまに見知らぬ土地に行くと、こういう経験が出来るので旅は本当に大っ嫌いです。
人材不足で言ったもん勝ち
人材は自ら発掘・育成するものじゃないのかと。
映画で言ったもん勝ち 第5回『ミスティック・リバー』
監督のクリント・イーストウッドがよく掲げるテーマ〝人間は単純な善悪では区別できない〟がこの映画でもテーマとなっている。なので観てる途中で、誰に感情移入したら良いのか何が正解なのか分からなくなってくる価値観が揺さぶられる映画。
この映画の凄いところは、運が悪い奴の人生は最後まで悲惨だという事を描き切ったこと。そして、その運の悪さは周囲にも小々波のように波及するが、それを断ち切れるのは強さと愛だということ。
ラストシーンの生理的な気持ち悪さをどう受け止めるかはそれぞれの解釈次第。
とりあえず、日頃から「ついてないなぁ」が口癖の人は落ち込むので観ない方が良い、そんな映画でした。
腕立て伏せで言ったもん勝ち
何となく身体を鍛えないとなぁって思ってばかりで行動に移さない日々にピリオドを打つために、まずは腕立て伏せをしてみよう!と一念発起したわけです。
しかし、日頃の運動不足は実に正直で、僅か10回が限界でした。
情けないと思いつつも現実を受け止めて、ここからがスタートだと前向きに考えることにしました。
で、前向きになった瞬間、ある事に気付いたんです。
それは、今日は10回しか出来なかったけど、腕の筋肉は確実に鍛えられたので、明日は今日より進歩して少なくとも11回は出来るはず。そして、その次の日は12回出来る。
この理論でいくと、1年後には365回出来る事になるはずです。
すげーじゃんと思ったわけです。
そう考えると、今日がいかに偉大な一歩なのかと感動すらしたわけです。
で、次の日、早速11回を目標に腕立て伏せしたら、なんと9回が限界だったわけです。
何故だ??思考回路が混乱しましたが、直ぐに気付きました。
そうです。筋肉疲労という概念を忘れていたのです。
このままいくと、1年後に365回出来るどころか、逆に10日後には1回も出来なくなる計算になるのです。
もう一度言います。たった10日で人間は腕立て伏せが1回も出来ない人間になってしまうのです。
何が言いたいかというと、やっぱ人間には休息が必要なんだってことですね。
スープカレーで言ったもん勝ち
ここ20年ぐらいですっかり北海道グルメとして定着したスープカレー。
野菜を前面に押し出し、本来のルーカレーよりヘルシーでお洒落さもあり、女性を中心に人気ですね。
でも、スープカレーの誕生秘話って聞いた事がないです。定番中の定番であるカレーライスをあそこまで変化させられって凄い発想の転換力だと思うんです。
でも、ある日その謎が解けたんです。
いつものように日清のカレーヌードルの残り汁にご飯を投入して食べてた時に「あ!これだ!」と気づいたんです。
スープカレーを最初に考えた人って、絶対カレーヌードルにご飯を投入して食べてた時に閃いたんだと。何かヒントが無ければスープカレーなんて発想は生まれないはずです。
何はともあれ、塩分を前面に押し出し、不健康で無骨なカレーヌードルがスープカレーに進化するんだから、そう考えるとダーウィンの進化論も納得できますし、どこにアイデアのヒントが転がっているのかなんて本当に分からないものですね。
画像は、旭川市緑ヶ丘の香屋さん。
オススメです。
カレーヌードルから発想したなんて事は無いと思います笑